
祈りの島の日本遺産
日本遺産 国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~
長崎県の壱岐・対馬・五島は、日本本土と大陸の間に位置し、古くから海の交通路として、また交易の中心地として栄えてきました。これらの島々は、長い年月をかけて国と国との交流を支えてきた歴史的な重要性が認評価され、日本遺産として認定されています。
29の教会堂をはじめ、多くの神社や仏閣があることから「祈りの島」と呼ばれる新上五島町もそのひとつです。この島の祈りの歴史は、遣唐使たちが中国大陸への安全な渡航を祈願したことから始まりました。
❖遣唐使史跡
❖山王山
❖青方神社
❖日島石塔群
遣唐使史跡
❖遣唐使の歴史と役割
その昔、唐との外交を深め、文化や制度を学ぶために派遣された遣唐使。当時最も発展していた唐から学んだ知識や技術は、その後の日本に大きな影響を与えました。当初は壱岐・対馬を経由して朝鮮半島沿いを通る北のルートを利用していましたが、663年の白村江の戦い以降、五島列島から東シナ海を横断する南のルートへと航路を変更しました。これにより、遣唐使と五島列島の深いつながりが始まりました。
❖五島列島の重要な役割
五島列島の港は、遣唐使が大陸へ向かう最後の寄港地としてとても大切な役割を果たしていました。水や食料の補給はもちろん、風の力のみで航行する当時の船にとって、順風を待つ場所であり、暴風雨を避けるための判断を下す重要な拠点でした。順調な航海であれば大陸まで7日で渡れたそうですが、羅針盤もない時代の航海は命がけの旅であり、多くの船が事故に遭いました。そのため、航海の安全を神々に祈ることが盛んに行われたそうです。五島列島にはそうした遣唐使ゆかりの場所や航海安全を祈願した神社等が今日まで残されています。
-
御舟様
-
ともじり石
-
姫神社跡
-
三日ノ浦の地名と錦帆瀬
-
弘法井戸
山王山
❖山王山の歴史と言い伝え
804年、遣唐使船が上五島に立ち寄った際、第一船には空海が、第二船には最澄が乗船していたと伝えられています。最澄は唐への渡航と無事帰国の感謝を込めて山王の神を祀り、この地に山岳信仰の基礎を築いたされています。この信仰が現在の雄嶽日枝神社の起源となり、2019年には創建1200年を記念する祭典が行われました。
山王山には数々の言い伝えが残されており、その一つに、比叡山延暦寺の「不滅の法燈」が万が一消えた場合、山王山に来て燈をつけて帰るというものがあります。これらの伝承は、山王山が遣唐使や最澄、そして比叡山との深いつながりを示す重要な証として注目されています。
❖山王山の見どころ
新上五島町の中央部に位置する山王山は、標高439メートルの雄嶽と402メートルの雌岳からなる双子の山です。山王山は南北から見るとピラミッド状の形をしており、古くから船の航路標識として重要な役割を果たしてきました。
-
山頂/三宮
頂上には大己貴命をお祀りする雄嶽日枝神社本殿があります。神社の記録によるとこの神殿は819年に建立されました。遣唐使として中国へ渡った最澄が804年の帰国後にこの山を訪れ、比叡山延暦寺(天台宗)の守護神「山王権現」をお祀りしたと伝えられています。
-
二宮/八合目付近
岩窟に溜まっていた水が枯れた時に古い銅鏡が見つかりました。鏡は鎌倉〜江戸時代まで様々な時代のものがあり、そのうち2面は中国からの舶載鏡でした。当時とても価値が高く神聖なものとされていたため、有力者たちが願いを込めて奉納したものと考えられます。また、この場所での信仰が中世以降も続いていたことがわかります。
-
一宮/二合目付近
旧荒川小学校裏の遥拝所から川沿いを登っていくと鳥居があり、さらに上ると石祠が祀られています。背後の岩壁には神様が宿られたような神聖な雰囲気が漂っています。
-
青方神社
青方神社は昔「山王宮」と呼ばれており、山王山を遠くから拝む場所(遥拝所)だったと言われています。現在でも境内では、青方神社の本殿のすぐ隣に山王宮が大切に祀られています。
日島の石塔群
❖石塔群の特徴と歴史的背景
日島は五島列島若松島の北西に位置する小さな島です。面積はわずか1.4平方キロメートルですが、海岸沿いには70基もの石塔が海に向かって立ち並び、独特な景観を創り出しています。「日島の石塔群」と呼ばれ、仏教の教えに基づいた五輪塔から単純な石積みまで多様な形態があり、その数と種類の豊富さに訪れる人は驚かされます。これらの石塔は鎌倉時代から江戸時代にかけて建てられました。使われている石材は、大陸との交易船が荷物を下ろした後、船のバランスを保つための重し(バラスト)として日島に運ばれてきたと考えられています。
石塔に使われている主な石材は3種類あります。
・兵庫県の六甲山地域産の御影石(花崗岩)
・福井県若狭湾地域の日引石(安山岩質凝灰岩)
・熊本県阿蘇地方産の凝灰岩
これらの石材の産地から、当時の瀬戸内海ルートと日本海ルートという二つの主要な交易経路の存在がわかります。当時、これらの石材は非常に高価なもので、現代の価値に換算すると数千万円にも相当すると考えられています。このような高価な材料が使われていることから、石塔を建てた人々がかなりの財力を持っていたことがうかがえます。日島の歴史や石塔群が建てられた背景については、古文書に詳しい記録が残されていません。しかし、海難事故で亡くなった人々の墓碑、航海の安全を祈る供養碑、あるいは当時の有力な交易者たちによる生前供養など、いくつかの説が伝えられています。
❖歴史的価値
日島は昔から大陸を目指す人々の出発点であり、また荒波を乗り越えて帰ってきた人々の安らぎの地でもありました。この島には、多くの人々の夢と希望、そして苦難の歴史が刻まれています。このような規模の石塔群は非常に珍しく、とても貴重な遺跡です。特に1300年代から1400年代は前期倭寇の活動が盛んだった時期と重なっており、この石塔群の存在は五島列島が東アジアの海上交易における重要な中継地だったことを物語っています。そのため、当時の漁村・漁業基地としての繁栄を示す歴史資料として、五島の歴史研究や民俗学的な観点からも重要な価値を持つ遺跡として高く評価されています。
📍五島手延うどん
「五島手延うどん」は日本三大うどんの一つです。その起源には諸説ありますが、遣唐使との関連が最も広く知られています。中国の伝統的な麺料理「索麺」がそのルーツとされ、遣唐使が五島に寄港した際に持ち帰ったと言われています。千年以上前に上五島に伝わったこの手延麺の製法は、島の風土に適応し、地元の人々の創意工夫によって今日の「五島手延うどん」として発展しました。
1200年以上の時を経た今も、かつての重要な寄港地としての歴史が様々な形で五島の文化に息づいています。